2013年9月
8月31日の「魂のパフォーマンス2103」公演を終えた9月19日(木)、車いすダンサー5名、スタンディングパートナー5名の計10名で広島空港から石巻市訪問の旅はスタートしました。
午後8時、仙台空港に降り立った私たちを、仲秋の名月が迎えてくれました。
東日本大震災以来、一刻も早く、被災地に足を運び、何がしかの支援をしたいという気持ちを、ずっと持ち続けていましたが、訪問することが邪魔になるようなことだけはしてはならないという気持ちもあり、また、トイレやアクセス、リフト車の手配などの確認が取れなければ訪問できないという条件もあり、今回やっとその機会を得ることができました。すでに2年半が過ぎてしまいました。
その夜、午前2時半、緊急地震情報で目を覚ましました。8階にいたせいか、震度Ⅲでも結構大きな揺れに感じました。地元のバスのドライバーは、「このあたりでは、日常的に揺れていますから、震度ⅢやⅣくらいで驚くことはありません」と言われました。翌日、早速石巻市内にある550世帯もある大きな大橋団地(仮設住宅)を訪問しました。数名の方が出迎えてくださり、団地の集会所に入りました。住む家を無くされ、家族や親せき、友人との別れを経験された住民の皆様が、ここで苦難を乗り越えようとしておられることを感じました。何列にもびっしりと並んだ住宅ののき先に咲くコスモスの花が秋風にやさしく揺れていました。
集会所の中で、車いすダンスを踊るように会場をセッティングしていると、NHKの記者や現地の新聞記者2名も来られ、取材を受けました。
「私たちは、皆さんに元気をお届けにまいりました。先ずは皆様ご自身が、元気にお過ごしになられることから、物事は前へ進んでいくことと思います。どうかお元気でお過ごしください。・・・私たちのダンスをご覧いただいた後は、ぜひ皆さん、ご一緒に踊りましょうね」と声かけをし、約40名の皆さんとフォークダンスの「コロブチカ」を踊りました。たちまち、笑い声と笑顔に包まれました。
「これまで、多くの慰門を受けましたが、いつも受身でした。震災以後、踊ったことは一度もなかった。久しぶりに踊って、とても楽しかった」と言われ、来て本当に良かったと思いました。
午後は、障がい者の施設を訪問し、その後、市役所を訪問しました。庁舎は震災の時、3週間も160センチもの水につかったままで、その間、水も電気もなかったそうです。「魂のパフォーマンス2013」公演の時、皆さまからいただいた募金113,000余円と、当くらぶからのお金を足して20万円を寄付金として「石巻復興政策課」へお届けしました。他団体からの寄付金と併せて復興政策に活用されるそうです。石巻市の被害状況について、数千人もの犠牲者が出たこと、復興の足取りも思うに任せない現状など、多くの課題を抱えながら頑張っておられることを聞かせていただきました。
海岸へ車を走らせ、大津波が来た現場も見学しました。もっとも住宅が密集していた海岸沿いの町は、根こそぎ消失し、住宅の基礎部分さえまったく隠れてしまうほど、夏草が覆い茂っていました。草に覆われた原っぱの角に、きっと、できたばかりであろう幼子と母親が寄り添う仏像が夕日に光り、寂寥を深くしました。少し行くと草も刈られた原っぱに、まるで羊羹を切って並べたように、車が同じ大きさの四角形にプレスされ、整然と何列も何列もずうっと向こうまで並んでいました。真っ黒に錆びついてこじんまりと佇んでいる物言わぬおびただしい車の残骸は、あの日の記憶を呼び覚まし、思わず手を合わせずにはおれませんでした。
石巻2日目の午前中は、高齢者の施設を訪問し、午後は、石巻市の体育館を借りて、市民を対象とした交流イベントにしました。どちらも、震災当時、多くの人々の避難所として使われたと聞きました。体育館には、現地の皆さん70名ばかりと、現地の車いすダンスをしている「歩む会」の皆さん18名も来られ、互いに演技披露した後は、ここでも会場の皆様も誘って一緒に「コロブチカ」を踊りました。
仮設住宅も、障がい者や高齢者の施設も、どこでも車いすダンスを見るのは初めてだと言われ、大変喜んでいただき、「早く又来て欲しい」と言われました。
出会う人、訪問先、どこでも皆さん、大変温かく、優しく、かつ逞しく生きておられることを実感しました。
日程は過密で、忙しく過ごしましたが、これまで体験したことのない充実感に満ちた旅でした。石巻市役所の担当者が「記憶を風化させないで、後世に語り継いでいくことが、残された者の責務」と言われました。広島も後2年足らずで、あの日から70年となります。「痛ましい記憶は、絶対に風化させてはならない。語り継いでいくこと」こそが生きている者の責務なのだという言葉を胸に帰ってきました。
現地訪問に際し、お世話をして下さった関係の皆様に、心より厚くお礼申しあげます。